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 姨捨山 

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 千曲市には「姨捨」という地区があります。正確には千曲市大字八幡(やわた)という地域にある一つの地区なのですが、古くから「棄老伝説の里『姨捨』はこの場所である」と言われ続けたため、姨捨山の場所について良く尋ねられます。


「おばすて」の歴史
 
 なぜ当地が「おばすて」と呼ばれるようになったのかは後述するとして、この地が中央の文献に登場するようになったのは「古今和歌集」(905年)が最初です。
 
 そこでは信州にある姨捨山をイメージして(または実際に訪れて?)詠んだとされる「わがこころ慰めかねつさらしなや 姨捨山に照る月を見て」(詠み人知らず)の歌が紹介されています。
 
 その後、棄老伝説の里として文献に登場するのが「大和物語」(956年)が最初です。日本人なら誰でも知っている「姨捨伝説」、いわゆる「楢山節考」の世界です。
 
 現在は国の名勝「姨捨」(田毎の月)として棚田が有名ですが、「田毎の月」(棚田一枚一枚に月影が映る様)が文献に初めて登場するのは狂言本「木賊(とくさ)」(1578年)です。
 
 その後1688年に松尾芭蕉の来遊もあり、歌川広重の浮世絵などでも広く世に知られるようになり、信州では善光寺と並ぶ観光名所となっていきました。
 
 
棄老伝説と「おばすて」
 
 905年の「古今和歌集」に登場しているということは、少なくともそれ以前から「月の名所」として中央に知られていたことは間違いないと思われます。
 
 そしてその後に「棄老伝説」が紹介され、江戸以降になって「棚田」が登場し「田毎の月」が有名になっていったものと思われます。
 
 これらからこの地は最初「名月の里」としての認知が先行し、その後「棄老伝説」が結びつき、後の新田開発により「棚田」が開かれる中、それらが相互に結びついていったものであると思われます。
 
 
「棄老伝説」(姨捨伝説)はあったのか?
 
 「棄老伝説」とは、老いて労働力もなく、口減らしのために老人を捨てたとされておりますが、果たして実際はどうだったのでしょうか?
 
 この地にて「棄老」、いわゆる老人を捨てる風習があったという記録は一切残っておりません。そうした棄老伝説は、日本はおろか世界各地に残されています。したがって一般的に「姨捨伝説」として知られている民話は必ずしも日本固有の話ではありません。
 
 親を家の床下に隠した農民が、老人の知恵により領主に突きつけられた難問を解決していくという話は、どこの国の話なのかは明らかではありません。どこの国かと言うことは問題ではなく、最終的には老人の知恵を尊ぶ話、つまりは親(先祖)を大切にしましょうという儒教思想と結びついた話です。
 
 千曲市内はおろか日本国内においてさえも、こうした「棄老」が領主の政策として行われていたとは記録として残されていないと思います。
 
 
「姨捨山」はどこか?
 
 当地で「姨捨山」とされる山、ないしは場所は当地で2箇所ほどあります。一つめはかつては更級山とも呼ばれ、国土地理院の地図では括弧書きで「姨捨山」と併記されている「冠着山」。もうひとつは長楽寺境内にある「姨石(おばいし)」を含む周辺一帯の山地です。
 
 「冠着山」は信州百名山の一つに数えられ、その形から名付けられたともされるように、大変特徴のある山です。昔の人もこの山を仰ぎ見ながら伝説に思いを馳せたとしても何ら不思議はありません。
 
 長楽寺境内の「姨石」も不思議な石です。地元では捨てられた老婆が悲しみの余りこの石になったとか、この石から身を投げたとかの逸話が残っています。斜面から突然突き出たこの岩を麓から見て、何らかの神々しさを感じても不思議ではないと思います。
 
 実際に棄老が行われた記録がない以上、伝説はあくまでも伝説に過ぎないのですが、それでもあえて「姨捨山」を認定するなら、答えは奈良、平安時代においては「冠着山」、中世、近世においては長楽寺を含む周辺部一帯というのが正解だと思います。
 
 これはその時代の姨捨観光の中心地が冠着山から長楽寺周辺に移っていったことに基づいた推論です。仮定の話ではありますが、歴史的に周辺の街道の中心も古峠(冠着山のすぐ北)から猿ヶ馬場峠(冠着山からは離れる)へ移っていった経過もあります。
 
 いずれにせよこの地を訪れる旅人と、彼らによってもたらされた情報により、遠く離れた地でこの地を「姨捨山」とした、というのが真相のような気がします。
 
 ちなみに現在千曲市八幡の姨捨という地区は、長楽寺周辺からJR姨捨駅のあたりまでを指します。
 
 
おばすて」の名前の由来
 
 何故この地が「おばすて」と呼ばれるようになったかについて、以下のような説があります。どの説も「おばすて」という語の響きが以前から成立していた事を前提としています。その音の響きから後に「棄老伝説」と結びついていったと考えることができそうです。
 
(1)長谷寺説
 現在の姨捨地区から約5キロほど北に離れた長野市篠ノ井の塩崎に長谷寺があります。このお寺は飛鳥時代(629年〜641年)に建立されたとされ、全国各地に数多くある長谷寺の中でも、日本三所と呼ばれる長谷寺の1つ(他に大和と鎌倉)で、最も古く全ての長谷寺の起源だという説もある由緒ある寺です。
 長谷寺を表す「はせ」という言葉は、かつては「はつせ」(「初瀬」または「終瀬」)と書いており、これに丁寧語の「お」がついて「おはつせ」から「おばすて」という言葉になっていったという説です。
 
(2)麻の葉説
姨捨の峠(猿ヶ馬場、一本松)の向こう側は麻績(おみ)村であるが、ここはかつては麻がたくさん取れ、繊維として利用できる茎の部分は朝廷に献上されていた。麻績村から見ると姨捨方面は北東側にあたり、取れた麻を製品にする上で、廃棄される葉の捨て場があった。
このことから、「はすてば」(葉捨て場)から「はすて」(葉捨て)となり、やはり丁寧語の「お」がついて「おはすて」へ変化していったという説です。
 
(3)死体捨て場説
昔は死体捨て場の事を「はつせ」と言った。昔は野辺を歩けば朽ち果てた屍が結構あり、特に猿ヶ馬場や一本松峠が近い姨捨周辺には旅人の屍が見られたことから、「はつせ」と呼ばれるようになっていった。その後、丁寧語の「お」が頭に付き、・・・(以下同)。
 
(4)「小初瀬部氏」説
 奈良時代以前から山裾に初瀬(泊瀬)の皇子を奉斎する部民「小初瀬部氏」が住んでいたことによるもの。「おはつせ」さんの地より、「おばすて」の地と名称が転じたことによる説。
 
 
結論・・・のようなもの
 
 棄老伝説そのものは、おそらく中国朝鮮を通じて日本に入ってきたものである。海外の文献を閲覧できる環境にあった京の都の知識人達に、「棄老伝説」は広く共有されていた情報であった事は推察できる。
 
 中央政権とのつながりも深い当地にも、そうした知識人達が数多く派遣されてきた。そしてたまたま「おはすて」という言葉を聞き及び、視察を兼ねて来てみたらその景観の良さと幽玄な佇まいに感銘を思え、「伝説」と結びつけられていったものと思われる。
 
 信州の有力な街道筋の近くにあったため、時に見つかる行き倒れた旅人の野辺に朽ちた白骨が、更にその伝説の存在を裏付ける状況証拠のようなものとなっていった。
 
 いずれにせよ「伝説」にあるような「棄老」は実際に行われてはいなかった。しかし「棄老伝説」を知る旅人の胸の内で「棄老」の伝説と「おばすて」の言葉の響きが結びつき、中央で広く喧伝されたため、姨捨の名声は高まっていたものであろう。
 
 
姨捨の名声
 
 姨捨の名声を裏付けるような話として、こんな話があります。
 
 現在の京都市東山区に「月見町」という地域があります。場所は祇園八坂神社近くの東大路通りを下がったところです。
 
 ここは周辺の弁天町などを含めて、江戸時代のある時期まで「新更級(しんさらしな)」という地名で呼ばれていました。いうまでもなく千曲市にある「更級」と同じです。
 
 何でもこの地域から見る月の眺めが、信濃の国「更級」で見る月にそっくりだということから、名付けられたとされています。
 
 確かに京都のこの地から見える東山の山並みは、千曲市の更級から見える山並みに似ているような気もします。(筆者は学生時代を京都で送りました。また、偶然でしょうが、千曲市でも千曲川沿岸から東側に見える山並みを「東山」と呼びます。)
 
 通常様々な文化が京都発で地方に伝搬していったこの時代、地方から京都に取り入れられる例は少なく、それほど昔の人の月に対する思いが強かった証拠として、貴重な例だと思います。
 
 なお、この情報は長野県人会京都支部の研究の成果から寄せられた話に基づいております。
 
 
最後に
 
 以上、姨捨に関して収集した情報を元に書きましたが、最後にもうひとつの「姨捨伝説」をご紹介して終わりとさせていただきます。
 
 この伝説には棄老伝説の部分は全く出てきませんが、月にまつわる話として、この話を強く推進する方もおられます。また文中の時代背景から、一部に歴史的な裏付けが不確かな部分があります。
  
 
もうひとつの「姨捨伝説」

 大むかし、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)という心も姿も美しい姫がおりました。この姫に大山姫という心も姿もみにくい叔母がいました。

 「めいの咲耶は、かがやくほど美しいのに、この私はなんとみにくいことか。」大山姫は、自分の姿を水にうつしてはくやしがっていました。

 「人は姿や顔の美しさより、心のやさしさが大切ではないでしょうか。」と咲耶姫がいうと、大山姫は「たいそうえらぶった口のききようだこと、美しい咲耶に、みにくい私の心などわかるわけがありませぬ、ええ、どうせ私は顔のとおり、心もみにくうございますとも。」とたいそうお腹だちになりました。

 咲耶姫は、自分のまごころが通じないばかりか、いえばいうほど、大山姫がひねくれていくように思われ、どうしてよいのやらわからなくなりました。大山姫はまた、「みにくい者には、着飾るより楽しみがありませぬ。」と言っては、次から次へと、高価な衣や首飾りをつけ、よその命(ミコト)や姫達に見せびらかしていました。

 命達はそんな大山姫のことを、あのような姫をめとったら、一生の不運だと言って、誰も大山姫を妃に迎えようとしませんでした。そんなわけで大山姫は、四十の坂を越してしまいました。

 咲耶姫は大山姫が不憫でならず、この上は神におすがりしなければと、朝に夕に、「おば姫の心を安らかにしたまえ。」と心をこめてお祈りしました。

 するとある夜、咲耶姫の夢枕に、月の神が立たれ、「明、十五夜の夜、大山姫をともない、更級の数々の峰を越えていき高根(高い山)に出でよ。そこに大岩があるから、その上へ登って、四方(ヨモ)を眺めよ、その時私の姿が、段丘の田毎に映り、そのさやけさで、大山姫の心はおのずと、清らかになるであろう。」と告げられました。

 次の日咲耶姫は喜びいさんで「おば姫さま、お屋敷に閉じこもってばかりおられては、体の為になりませぬ。今宵は満月、お月見でもいたしませぬか。」と誘いました。

 「そういえば、ここ何年となく、お月見などしなかったから、行ってみましょう」大山姫は思いがけなく素直にいわれて、衣はどれを着ていこうか、髪飾りはこれに決めましょうなどと、いそいそ身支度をなされました。咲耶姫は大山姫と連れ立って、月の神のお告げ通り、更級の数々の峰を越えて、高根に登りました。

 「なんと見事な大岩でしょう。」と大山姫は、一つの大きな岩を目ざとく見つけられて指さされました。「おば姫さま、あの大岩へ登りましょう。」咲耶姫は、この大岩こそ、月の神のお告げの大岩に違いないと、大山姫を誘って、その大岩へよじ登り、二人して四方を眺めました。

 四方の山々は黒く静まりかえっていましたが、遥か下の方には、段丘の田毎の水に月影が映っていました。ふたりはしばし無言のまま、その景色にみとれていましたが、やがて大山姫がしずかに口をひらかれました。

 「咲耶よ、田毎の月かげのさやけさ、まこと、この世のものとも思われませぬ。なにやら、私の心の中のけがれが、みんなあらい落とされていくようじゃ、これもみな、咲耶のおかげじゃ。」と目に涙をうかべていわれました。

 「もったいのうございます。わたくしこそ、なにやら月のひかりで、こころの奥まで清められたようでございます。」咲耶姫は今こそ、自分のまごころが大山姫に通じたかと思うと嬉し涙にくれました。

 するとその時、月を伏し拝んでいた大山姫が、「わたしがもし、月の宮へのぼれたら、この国をお守りになっていらっしゃる諏訪の神建御名方命(カミタテミナカタノミコト)のような神になりたいのですが。」といわれました。

 「え!月の宮へ!何もそんな遠いところへ行かなくても、私のそばにいつまでもいてほしゅうございます。」咲耶は思いもよらぬ大山姫のことばに、ただおろおろするばかりでした。

 すると空の月の宮から、「大山姫よ!この浮橋をわたって来なさい。わたしと、月の宮でくらそう。」と、諏訪の神のよぶ声がしました。そしてその声とともに、数百条と思われる綱のような浮橋が、月の宮から大山姫の足元へかかりました。大山姫と咲耶姫はふしぎななりゆきに夢でもみているような心地がしました。

 「諏訪の神、まこと、私のような物でも、この国の守り神となれましょうか。」と大山姫は、月の宮を仰ぎながら叫びました。

 すると再び月の宮から、「そなたの美しい心こそ、月の宮びととしても、国の守り神としてもふさわしいのです。」と諏訪の神の声がしました。大山姫はその声に誘われたかのように、一本の浮橋へ、足をかけられますと、

 「咲耶、さようなら、おまえのやさしい心は、いつまでも忘れません。」と叫ばれました。その時、妙なる楽の音が響き渡り、大山姫の姿は、満月の中へ、みるみる小さくなっていきました。

 咲耶姫はその姿を見送りながら、声を限りに叫ばれました。「おば姫はこの高根に、みにくい心を捨てられ生まれ変わられました。おば姫をいつまでも忘れぬようこの高根を、おばすて山と呼ばせていただきましょう。」

 更級の里、おばすて山に伝わるお話です。


 
※このページは幾人かの方から収集した情報をまとめて記事としたもので、歴史的証拠に基づくものではありません。あくまでも一つの説としてお楽しみいただきたいと思います。

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